今年(2025年)は、「昭和100年」と「戦後80年」に当たる「区切りの年」。
「昭和100年」を振り返ってみれば、最初の20年は、日中戦争=満州事変、上海事変、支那事変から太平洋戦争=第二次世界大戦へと途切れなく続く「戦争の時代」だった。そして後半の80年は、国内だけは……との限定付きだが、「平和の時代」だったと言えるだろう。
その「戦争の時代」と「平和の時代」の対照的な二つの時代に、日本のスポーツ界もそれぞれ特徴的な発展を見せた。
まず最初に「熱狂的なスポーツ・ブーム」が生じたのは、昭和3(1928)年のアムステルダム・オリンピックで、三段跳びの織田幹雄と水泳(平泳ぎ)の鶴田義行が、日本人初の金メダルを獲得したことがキッカケとなった。
国民の多くが、夜間の「提灯行列」でその快挙を祝ったが、その「提灯行列」はその後の戦争で勝利の報告がもたらされると、常に行われるようになった。
そして翌昭和4年には昭和天皇が、剣道と柔道が行われた「御大礼武道大会」を天覧。続く昭和5年には「明治神宮体育大会」を天覧し、陸上競技、バレーボール、ホッケー、相撲、そして野球の早慶戦を観戦し、天皇自ら率先してスポーツの普及に大きく貢献した。
もちろんこれには、当時の「軍国主義政府」の企図も存在した。当時の文部省が共産主義や社会主義の「危険思想の弾圧」と「国民の思想善導」を目的とし、「体育の振興」が「国家事業として」推奨されたのだった。
もっとも、軍国主義政府の企図とは無縁に、国民が独自にスポーツの魅力に気付いたことも事実だった。それは昭和が幕を開ける前の大正デモクラシーの時代から始まり、東京六大学野球や全国中等学校野球大会(現在の高校野球)や箱根駅伝が人気を集め、大正9(1920)年のアントワープ五輪で人見絹枝が陸上800mで日本人女子初の銀メダルを獲得したことも大きな話題になった。
そして昭和5(1930)年頃には、軍国主義政府の企図とは異なり、作家の阿部知二の『日独対抗競技』や中河幹子の『ラグビーの歌』などの「スポーツ文藝(小説)」が人気を集め、年間20編以上発表される「未曾有のスポーツ小説全盛時代が訪れた」(以上・坂上康博『権力装置としてのスポーツ-帝国日本の国家戦略』講談社選書メチエを参考にしました)
戦争の拡大が進むと、ロサンゼルス五輪(昭和7年・メダル獲得数世界5位)やベルリン五輪(同11年・同7位)での熱狂とともに、軍国主義政府によるスポーツの推進が強まった。が、やがて敗戦が続き国内の戦災の広がるなかで、スポーツそのものの開催が不可能となり、昭和15(1940)年に開催が予定されていた東京オリンピックと札幌冬季五輪も(同年東京で開催予定だった万国博覧会も)返上・中止を余儀なくされたのだった。
そうして敗戦。戦後となって、日本のスポーツ界がまず手を付けたのは、戦前に開催を返上した東京オリンピックの実現だった。それも戦前の軍国主義政府が目指したような、神武天皇の即位以来の「皇紀2600年」を祝ってのオリンピックではなく、「平和の祭典としてのオリンピック」だった。
昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約の実効で、まず1960(昭和35)年の五輪開催に立候補したが、このときは同じく第二次大戦の敗戦から復興したイタリアのローマの前に敗退。しかし続く1964(昭和39)年の開催を目指し、大本命と言われていたアメリカの自動車の町デトロイトと争って招致に成功。
アジアで初のオリンピックは、かつて戦争で迷惑をかけた諸国を(すべてではないが)聖火リレーが巡回し、1945(昭和20)年8月6日の原爆投下の日に広島で生まれた若者を最終ランナーに起用し、戦後の「平和の祭典」は成功裏に実行されたのだった。
最終日の閉会式、国立球技場の広いフィールドには、多くの若い女性が手にした松明によってオリンピックの五つの輪が描かれた。その五つの火の輪が、聖火が「天に帰った(消えた)」あと、大きな一つの輪になり、各国の選手が国別ではなく全員入り乱れて入場。そのとき、「もしも世界平和というものが存在するならば、それはこのような光景のことを言うのではないでしょうか」というアナウンサーの興奮した声が、テレビで全国に響き渡ったのだった。
さらに戦後の「平和な昭和」の日本は、1970(昭和45)年に「日本万国博覧会Expo'70(通称「大阪万博)」を開催。 2年後の1972(昭和47)年には札幌冬季五輪も開催された。
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